首都高速道路都心環状線(神田橋JCT~江戸橋JCT)は、1964年に開催された東京オリンピックに向けて、日本橋川の大半を覆う形式で建設されました。
現在半世紀以上経過し、高速道路の通行量増大に伴い、鋼桁の疲労亀裂やコンクリート床版のひび割れなど、劣化損傷が多数発生しています。首都高速道路や地元住民の安全・安心を確保するために、構造物の造り替えが必須となっています。また地元日本橋の老舗を中心とした旦那衆が結束して、日本橋に青空を取り戻す運動を半世紀に亘り行い続けてきました。その願いが実現化しようとしています。
首都高速道路は、「1964年の東京オリンピック開催前に完成させるために、用地買収が必要のない日本橋川の上部に川の流路に合わせた道路線形で計画された」といわれます。それは間違いで、元々は日本橋川の水を抜いて川床を通す案でした。
当初の案では日本橋の上ではなく、日本橋の下に建設される予定でした。当時の日本橋川は洗剤の泡が水面を覆う汚くて悪臭が漂う川でした。都市景観に配慮して、日本橋川に蓋(ふた)をして覆うべきであるという地元の声もありました。
1958年に狩野川台風が来襲し、東京は30万戸以上が浸水する甚大な被害に見舞われました。そのことが理由となり、豪雨による排水機能を確保するためにも日本橋川を残すべきであるという声が逆に大きくなりました。また高架を走る高速道路は、当時の人々には「鉄腕アトム」の背景描写をイメージさせ、「美しい曲線」や「スマートな構造」を連想させました。
そして同年の1958年に、日本橋川の川床案から上部空間に建設する高架案に変更・決定されました。東京オリンピック開催が決定されたのは翌年の1959年です。その後、急ピッチで首都高速道路は建設されました。
首都高速道路建設の経緯を下表にまとめます。
年月 | 経緯内容 |
~1958年 | 首都高速道路は日本橋川の川床を通す案が有力 |
1958年 | 狩野川台風による甚大な浸水被害が生じる |
1958年 | 日本橋川を残し、上部空間を利用しての首都高速道路建設に変更・決定 |
1959年 | オリンピック委員会により1964年オリンピック開催は東京に決定 |
1963年12月 | 都心環状線(呉服橋JCT~江戸橋JCT)開通 |
1964年8月 | 都心環状線(神田橋JCT~呉服橋JCT)開通 |
1964年10月 | 第18回東京オリンピック開催 |
首都高速道路が完成し、東京オリンピックも大成功を収め平常を取り戻すと、地元住民や商店主などは日本橋の上部を覆う首都高速道路に対して違和感を感じるようになります。
日本橋の歴史的な景観を損ねているとの声が徐々に上がるようになりました。首都高速道路ができる前の姿を甦らせる運動が早くも起きます。
地元商店・飲食店・企業などの老舗の経営者や三越百貨店(旧越後屋)、住民などにより、1968年に名橋「日本橋」保存会が設立されました。その後1983年に「よみがえれ日本橋宣言」を決議し、首都高速道路を地下に移設し、日本橋の雄姿を甦らせることを誓い合いました。
他にも日本橋地域ルネッサンス100年計画委員会や日本橋学生工房などが発足し、同じく首都高速道路を移設し、日本橋(川)の再生を提唱しました。
首都高速道路公団(現:首都高速道路株式会社)は、1995年1月に発生した阪神・淡路大震災により阪神高速道路が倒壊した事実から、耐震補強の検討に入ります。
当初は地下化という形態ではなく、現状のままの耐震改修案が形成されつつありました。
2014年に首都高速道路株式会社は、首都高速道路の耐震化を発表し、高架橋を維持する方針でした。そうなると今後50年~60年に亘り、日本橋(川)の上を首都高速道路が覆い続けることになります。日本橋の地元である中央区は反対することになります。
中央区は当初、首都高速道路都心環状線の完全撤去を主張していました。首都圏にある高速道路の環状線は都心環状線以外に、中央環状線(首都高速中央環状線)、外環(東京外かく環状道路)、圏央道(首都圏中央連絡自動車道)の3環状が整備されようとしています。それらが整備されると都心環状線の交通量が減少し、不要になるとの分析が中央区にはありました。
この裏付けを取るために、国土交通省と中央区が別々に交通量広域シミュレーションを行った結果、交通量は5%しか減少しないことが判明します。この結果により撤去案は採用できないことが判明しました。
中央区内では、日本橋1丁目中などの5地区で再開発がこれから行われますが、その際に首都高速道路の地下化を同時並行する方法で行うと効率よく進められると考えました。
地下鉄は東京メトロ半蔵門線や銀座線が通り、電力ケーブルやNTT回線、給排水管、ガス管が網の目のように地中に埋まっています。それらを抜けて高速道路を通すことは至難の業となります。再開発と並行する方法を採用すると、地価のインフラ設備も面的に整備され、高速道路の建設も多少やり易くなります。
2017年7月に中央区が、国土交通省と東京都に対して、首都高速道路の地下化を申し入れました。その1週間後に、石井元国交相と小池都知事が、「日本橋周辺の首都高速の地下化に向けて取り組む」と発表することになります。
首都高速道路株式会社が約2,400億円、東京都が約326億円、中央区が約80億円、民間が約400億円を負担し、合計約3,200億円の事業になります。日本橋川を横断する箇所はシールド工法で、その両岸は開削工法での工事になります。
首都高速道路の日本橋上部の地下化の経緯を下表にまとめます。
年月 | 経緯内容 |
1995年1月 | 阪神・淡路大震災発生、阪神高速道路が倒壊 |
2001年 | 扇千景元国交相が「日本橋の景観を一新する」と発言 |
2006年 | 小泉純一郎元首相の指示で、「日本橋川に空を取り戻す会」結成 |
2012年9月 | 「首都高速の再生に関する有識者会議」で、「都心環状線の高架橋を撤去し、地下化を含めた再生を目指すべき」と言及 |
2014年 | 首都高更新計画発表、竹橋~江戸橋区間(日本橋区間)が大規模更新箇所に指定 |
2015年9月 | 「首都高の撤去または移設を求める署名」が衆議院に提出 |
2016年5月 | 国家戦略特区の都市再生プロジェクトに日本橋川周辺の3地区が追加 |
2017年6月 | 署名が参議院に提出 |
2017年7月14日 | 中央区が、国土交通省と東京都に対して首都高の地下化を申し入れ |
2017年7月21日 | 石井元国交相と小池都知事が、「日本橋周辺の首都高速の地下化に向けて取り組む」と発表 |
2019年 | 都市計画決定 |
首都高速道路の建設は、1964年開催の東京オリンピックを前に完成しました。首都高速道路の日本橋上部の地下化は、2020年開催の東京オリンピックの後に建設が着手されます。つまり、偶然にも共に東京オリンピックを契機に建設されることとなります。
首都高速道路はその役目を十分に果たしてきました。そして、地元の長年に亘る地道な活動があったからこそ、首都高速道路の日本橋上部の地下化は実現しました。
時代とともに価値観・評価は変遷し、それに伴い街づくりも変化し続けます。首都高速道路の地下化はその現われの一つでしかありません。
計画当初においても、地下部分の大半をシールド工法で施工することにより、4,000億円を超える事業規模となりました。しかし、あまりにも事業費が高すぎるとの批判の声が挙がり、事業費圧縮の対策を採ることになります。その対策として、護岸部の下は開削工法、日本橋川の下はシールド工法に変更となりました。結果、事業費を3,200億円まで、約1,000億円の圧縮をしました。
一方、開削工法を採用したことで、工事期間中に日本橋川の船舶航行不可の期間が2~3年設けられることになりました。ようやく日本橋川の舟運が復活し、水辺観光客が増加している中、舟運機能が2~3年止められるのは、水都東京にとっては痛手となります。
私個人の意見としては、シールド工法を全般的に採用し、日本橋川の舟運を途切れることなく継続してほしかったです。とはいえ、約1,000億円の工事費の違いが出てしまっては、強く言うこともできませんが。
1日も早く工事が終わり、首都高速道路の無い日本橋の実現と舟運の盛んな日本橋川の実現を望みます。
出所
※1 「首都高日本橋地下化検討会」 国土交通省
https://www.mlit.go.jp/road/ir/ir-council/exp-ug/
※2 「日本橋周辺のまちづくりと連携した首都高速道路の地下化に向けた取組」 東京都都市整備局
https://www.toshiseibi.metro.tokyo.lg.jp/bunyabetsu/kotsu_butsuryu/kosoku_torikumi.html
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